野心的なフリーターのぼやき

23歳の高卒フリーター。日常、社会についての駄文を垂れ流します。ご訪問、ありがとうございます。

人生は短いほうがいい!

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 時間がたつのはあっという間で、人生は短い。誰もが一度はそう感じたことがあるのではないか。そして、そこに虚しさとか、はかなさを感じ、悲観するのだ。

 

 しかし、考えてもみれば不思議なものだ。人生とは実体のないものだ。紐とか蛇のように、長さがあるわけではない。それなのになぜ短いと感じるのだろうか。

 

 いや、人生に長さはある。たとえば、1分より2分の方が長いじゃないか、というかもしれない。1分、2分がグラフ上の目盛りなら、たしかにそうだろう。2分の目盛りまでの方が長い。しかし、私たちの1分、2分が、グラフ上の目盛り以上のものであることは、誰もが気付いていることだ。

 

 では、そんな実体のないものである、時間、人生が、なぜ短いと感じるのだろうか。それには、3つの理由があるように思える。

 

 ①やったことを文章にすると、短くなるから

 

 私は少し前までニートだったが、ニートの一年というのは文章にすると、ほんの一行で書けてしまう。「1月から12月まで、毎日2ちゃんねるを見て、オナニーをして、ゲームをした」こんな感じだ。

 しかし、リア充君の一年は、こうはいかない。「1月は、A社とのプロジェクトを完成させ、彼女と結婚式の相談をして、有給をとってハワイに旅行し、(・・・)。2月は(・・・)」と、書けばきりがないだろう。ノート一冊分くらいはあるんじゃないだろうか。

 というわけで、ニートの私と、リア充君とでは、一年を文章にしたときの長さが違う。もちろんこれは文章の長さであって、時間の長さではない。しかし、時間というのは実体のないもので、長さもない。だから、文章の長さ=時間の長さ、と錯覚してしまう。

 

 したがって、人生を長くしたければ簡単だ。些細なこと、くだらない事でも日記につけ、自分の生きてきた記録を長い長い文章にすればいい。それだけで人生が長いと感じるだろう。 

 

 ②昔のことが思い出せてしまうから

 

 昔の思い出が、鮮明に出てくるとき、人生が短いと感じる。たとえば、10年前の出来事が、昨日のことのように、鮮明に、はっきりと思いだされると、ああ人生は短いと感じる。なぜだろうか。

 

 それは、人生の長さを、距離の長さと錯覚しているからだと思う。長い距離にあるもの、つまり遠くのものは、よく見えない。ぼんやりしている。しかし、短い距離にあるもの、つまり近くのものは、はっきり鮮明に見える。

 

 これを出来事にあてはめる。過去の出来事が、ぼんやりとしか思い出せないと、距離のときと同じように、その出来事との間に「長い」時間があるように感じる。逆に、出来事が、鮮明に、はっきりと思い出されると、過去との間の時間が「短い」と感じる。

 

 つまり、距離と時間を混同してしまうため、昔の出来事が鮮明であれば鮮明であるほど、人生は短いと感じてしまう。ちょうど、鮮明に見えるものが、自分から短い距離にあるように。

 

 では、どういうときに、過去の出来事が鮮明に思い出されるのだろうか。それは、①ずっと同じ場所に住んでいるとき、あるいは、②ずっと同じような環境で、ずっと同じようなことをしているときであると思う。

 なぜなら、過去の出来事の現場にいれば、記憶を補完して、思い出を鮮明にすることができるからだ。 

 

 たとえば引越しをする前のことが、遠い昔のことのように思えたり、働き出してから学生時代が遠い昔のことのように思えることは、ないだろうか。

 

 ③やりたいことが多すぎて、時間が足りないから

 

 たとえば、世界征服したいが、そのためには1000年かかるとしよう。しかし、80年くらいで寿命がきてしまう。1000年と80年の目盛りをグラフに打てば、80年は圧倒的に短い。だから、人生は短い。

 

 学ぶこと、探究することが尽きない、学者タイプには、こういう人が多いのではないだろうか。しかし、やりたいこともとくになく、当たり障りなく生きることを目標にしている人にとっては、人生は十分長いだろう。

 

人生は短い方がいい!

 

 というわけで、人生が短い理由は、①自分のしてきたことを短い文章で簡潔にまとめてしまっているから、②ずっと同じ場所で同じようなことをしているから、③やりたいことが多すぎるから、ということになる。

 

 それならば、人生を長くする方法は簡単だ。

 

 ①毎日ノート3ページ分のくだらない日記を書き、自分の人生を長い長い文章にする。

 ②一カ月おきに引越しして、転職して、周囲の環境をかえる。そうなると、記憶が補完できなくなり、過去の出来事が、鮮明に思い出せなくなる。

 

 ③やりたいこともないまま無気力に生きる。

 

 しかし、そんなつまらない人生はまっぴらごめんではなかろうか。

 

 人生が短くても、そう悲観しなくてもいいのかもしれない。短くて上等だ。

 

 

 

 

 

掃除と映画「ハウルの動く城」と脳科学の関係

 

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ハウルの動く城のあの謎シーンを分析する 

 

 ジブリ映画「ハウルの動く城」は、クソ映画という人もいれば、神映画という人もいる賛否両論ある映画だ。この映画のあらすじを簡単に言おう。老婆の姿にかえられた、主人公の美少女ソフィーが、ハウルというイケメン魔法使いの家に住み込むこみ、ハウルと愛し合うようになる。まさしくリア充そのもののラブストーリーだ。ああ、心が痛い。

 

 この映画の中に、意味不明ということで、有名なシーンがある。

 

 ソフィーは、クソ汚いハウルの動く城を掃除する。すると、ハウルの髪を染めるカラー剤がめちゃくちゃになり、ハウルの髪が金髪→黒髪にかわってしまう。ハウルはたったこれだけのことで、マジギレして、勝手に絶望して、暗黒化する。

 

 ハウルにまったく感情移入できない、意味不明のシーンだろう。しかし、このシーンには、私なりの解釈がある。

 

 家の内部は、人間の精神の象徴なのだ。この場合だと、ハウルの城の内部は、ハウルの精神の象徴となる。ソフィーはハウルの城の内部(=ハウルの心の中)にずかずかと入り込み、掃除をする。すると、ハウルの心の中は整理されるが、その分、心の中の人に見られたくないものを見られてしまう。だからハウルはマジギレした。私はこのシーンをこのように解釈する。

 

家の内部と人の精神

 

 なんてアホらしい勝手な解釈なんだ、と思われるかもしれない。しかし、家の内部と人間の精神は、歴史を振り返っても、結びついているように見える。「個人空間の誕生(イーフー・トゥアン著・阿部一訳)」を引用する。

 

 「およそ三百年前にはじまった内面化は、家族の親密さや、室内風景や、詰め物の入った椅子の快適さへの引きこもりによって特徴づけられるが、それとともに自己への引きこもりや自意識の強まりによっても特徴づけられる。壁掛けの鏡は十七世紀の終わり頃普及し始めた。十八世紀の初期には、勉強と内政のための静かな場所である図書室が、ますます多くのジェントリーや貴族の家の特徴となっていた。・・(中略)・・この時期に、読み書きできる人々は文章に「私」を頻繁に使うようになった。また、「自己愛」「自己意識」「自己憐憫」「自我」「性格」「良心」「憂鬱」「当惑」といった言葉が、イギリスやフランスの文学に出現し、現代と同じ意味で使われるようになったのである。」

 

 とまあ、読みにくい引用文だ。しかし、家の内部の発展が、人間の精神の発展と結びついていることは、おわかりいただけると思う。

 

 しかし、そんな難しい事を考えないでも、掃除するとなんかすっきりするとか、掃除すると心洗われた気がする、というのは、身近な体験にないだろうか。ある記事読み、そこには、脳科学的な理由がある気がした。

 

 意外とテキト―な脳みそ

 

 この記事によると、たとえば、ゴキブリを食ってキモい、というときも、ムカつくヤツがキモい、というときも、脳の同じ部分が反応するらしい。前者は、知覚的なもの、後者は感情的なもの。同じ「吐き気」でも違うじゃないか、と言うかもしれない。しかし、脳は同じ部分で処理する。

 なぜなら、脳は、感情的な吐き気というものを処理しないといけなくなったとき、それを処理するための新しい部分を作るのではなく、元からあった部分の仕事を増やしたからだ。

 

 この記事は、さらにおもしろい実験を挙げる。

 

 ①精神的な苦しみを感じている人に、肉体的な痛みに関係する神経伝達物質の働きを抑える薬を投薬すると、気分が楽になる。

 

 ②倫理的な過ちを話した直後の人は、そうでない人より消毒液が欲しくなる。

 

 ③被験者に、いままでの道徳的な過ちについて話してもらう。そのあと、手を洗った被験者は、洗わなかった被験者より、その直後に人助けをしない傾向が出た。(手を洗っただけで、罪までが洗われた気になったのか)

 

 ④温かいコーヒーを渡してくれた人は、冷たいコーヒーを渡してくれた人より「温かい人」に見える。

 

 ⑤履歴書が軽いクリップボードについていると、その人の性格まで軽いやつに見える。

 

 身体と精神、物理的な世界と精神的な世界は、案外根深いところで結びついているのかもしれない。掃除して部屋が綺麗になると、自分の心の中まで綺麗になったように感じてもおかしくないように思える。ソフィーのような美人に掃除してもらえるハウルはうらやましいけど、自分で掃除するのも悪くない気がしてきた。

 

 

 

 

 

敬語が日本をダメにする理由

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敬語は社会に和をもたらす?  

 日本語には敬語があるから、コミュニケーションが円滑にすすむ。敬語があるから、和を保てる。そんなことを言う人がいる。本当にそうだろうか。

 

タメ口で話しかけられるとイラッとする理由

 そもそも敬語には、どんな効果があるんだろうか。たとえば、こちらが敬語を使っているのに、相手が敬語を使っていなければ、どう感じるだろうか。私なら、こちらが一段下の立場なんだな、って感じてしまう。逆に、私が敬語を使っていなくて、相手が使っていれば、こちらの方が偉い立場なんだなって無意識に感じてしまう。敬語の1つの大きな効果は、上の立場と下の立場をはっきりさせることだと思う。

 

江戸時代なら敬語もアリかも

 もちろんこれは必ずしも悪いことではないと思う。相手が敬語を使ってくれば、こちらはいい気分になるからだ。階層が比較的に固定化している時代、たとえば、江戸時代なら、敬語はいいことずくめだっただろう。年功序列で動く社会でもそうだろう。しかし、上の立場と下の立場が簡単に入れ替わる時代、下剋上の時代ならどうだろうか。

 

敬語は現代日本の癌

 たとえば、かつての部下が出世して、自分の上司になったとしよう。もし敬語というものがなければ、ただ仕事における役割がかわっただけ、と割り切れるかもしれない。しかし、敬語によって立場の上下がはっきりする結果、部下の出世は自分にとってかなり屈辱的なものとなる。それまでは敬語を使っていなかったかつての部下に、今、敬語を使わなければならないのだ。かつての部下にしても、元上司に敬語を使うべきか、使わないべきか、悩むかもしれない。元上司は、使いづらい部下となる。こうして、気まずい立場の逆転がおこる。下剋上の時代において、敬語は社会に和をもたらすどころか、社会に摩擦をもたらすのだと思う。

 しかし、軽い摩擦ですんだらまだいい方かもしれない。この摩擦はさらに悪化して、日本社会の様々な場面に、致命的な負の影響を及ぼしているように見える。

 

日本企業の競争力を低下させる敬語

 1つ目に、年功序列を守るという影響があるように思う。かつての部下に敬語を使わなければならない、という屈辱を回避するために、企業はできるだけ年功序列を維持しようとするだろう。しかし、世界中の企業と戦わなければならない時代に、年齢という能力と無関係な要素を含んだ人事制度をもつ日本企業は生き残っていけるだろうか。

 

女性の社会進出を妨げる敬語

 2つ目に、女性の社会進出の障害となっているのではないか。多くの女性は、出産+育児により、一定の期間職場から離れざるを得ない。職場に戻ってきてみると、後から入ってきた後輩たちが、自分より仕事の経験を積んでいることもあるだろう。後輩たちの方が役職があがっていることもあるかもしれない。そうなると、かつての後輩に敬語を使わざるをえず、気まずい思いをすることになる。かつての後輩にしてみても、気まずい関係にある先輩は、使いづらい部下だ。企業にしてみれば、職場にこんな摩擦をおこすくらいなら女性なんていらない、と思うかもしれない。こうして、女性はますます企業から敬遠されるようになる。

 

公務員の天下りを増やす敬語

 3つ目に、公務員の天下りの原因の1つにもなっている気がする。かつての部下に出世で抜かれ、敬語を使わないといけなくなるのは屈辱だ。そうなるくらいだったら組織から出ていこう、という発想になってもおかしくない。こうして、かつての部下に出世で抜かれた上司たちのために、天下り先が次々と作られていくことになる。

 

サービス業を過疎らせる敬語

 4つ目に、サービス業の人気を落とす原因の1つになっている気がする。日本のサービス業では、対等な契約のはずなのに、なぜかサービスを提供する方が敬語を使い、カネを提供する方は敬語を使わずに偉そうな態度をとる。店員が「ありがとうございます」と言っても、客はそれを無視するのがほとんどだ。

 ここでも敬語は、店員の立場をはっきりと下にし、客の立場をはっきりと上にしている。その結果、一度、客として偉そうに振る舞ってしまうと、店員として働くことが、上の立場から下の立場への転落、ということになってしまい、屈辱となってしまう。その結果、サービス業はますますだれもやりたがらない仕事となる。

 

 やっぱり敬語は日本の癌

 現代日本では、無駄が許されない。若い才能は活用しなければならないし、女性も働かなければならないし、無駄な天下りも減らさなければならないし、人気のないサービス業にも人材をおくりこまなければならない。そのためには、人の配置を柔軟にすることが、必要不可欠だ。しかし、敬語の、必要以上に立場の上下をはっきりさせる効果は、それを妨げることしかしていないように見える。

 

敬語の呪縛から自由になろう!

 日本をもっとよくするためには、敬語の罠から自由にならなければならないと思う。そのためには、誰にでも敬語を使うことで、敬語のもつ、立場の上下をはっきりさせる効果を打ち消さなければならないだろう。もちろん、家族や友人にまで敬語を使え、というのではない。ただ、部下や店員にも敬語を使うべきだと思う。日本のさらなる発展は、案外こんな小さなことからはじまるのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

手取り2000万円でも怠けますか?

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タスケテ、タスケテ。貧乏人は永遠に貧乏人。 

 「21世紀の資本(トマ・ピケティ)」は近頃話題の本だ。私はもちろん読んでいない。しかし、読んだ人の話によると、このような内容であるらしい。戦争のない資本主義社会においては、資本の収益率>経済成長率となるため、金持ちはますます金持ちになり、金持ちと貧乏人の差は永遠に開き続ける。我々貧乏人が野生の勘で薄々気付いていたことを学問的に証明してくれたわけだ。

 ピケティは言う。それをなんとかするため、全世界で、金持ちには収入の80%の税金をかけるべし。ちなみに、あたりまえのことだけど、金持ちといえど、たとえば、その収入のうちの195万円については、現状5%の所得税しかかからない。税率というのは、収入全体ではなく、その部分にかかるからだ。

 

スポンサーの機嫌をとる読売新聞

 ところで、読売新聞は、この80%の税金に不満なようだ。読売新聞の考えでは、税率が高いと金持ちの「働く意欲をそ」ぐことになるからだ。まったく人をバカにした意見で、一般人から見れば乾いた笑いしか出てこないだろう。しかし笑ってはいけない。読売新聞もスポンサー企業の社長サマの機嫌をとるのに必死なのだ。

 

カネでしか動かない社長って・・・

 冷静になって考えてほしい。あなたが、所得税が引かれる前の年収が、1億円の社長だとしよう。所得税がひかれた後のあなたの年収は、現状なら6000万円ほどになる。住民税も引かれれば5000万円ほどか。

 税率をあげて、収入の80%ほどの税金をかけるとなると、年収1億でも税引後の手取りは2000万円ほどになる。しかし、これだけでも十分な額ではないか。普通はこんなカネ使いきれない。税率があがったから働く意欲が減るだろうか。減るとしたら、そんなヤツはそもそも社長不適格だろう。

 

日本も昔は所得税最高で75%だった!

 現在の所得税最高税率は45%だ。人によっては所得税で、収入の四割近くもっていかれることになる。現状でも金持ちはけっこう税金とられてるじゃん、と思うかもしれない。しかし、税率80%というのは歴史的に見れば普通のことなのだ。日本人がモーレツに働いていた高度成長期の所得税率は最高で75%だった。読売新聞は日本を創った人たちに怠け者とでも言いたいのだろうか。ちなみに、あのアメリカでも1960年代半ばまでは、91%

 

働く意欲の本当の源って?

 収入に人の働く意欲の源があるとしたら、それは手元に残る額そのものではなく、企業の出す報酬額それ自体ではないだろうか。たしかに、税率が高くなれば手元に残るお金は減ってしまう。しかし、企業がその人に高い報酬を出している事実はかわらない。企業が、その人に、他の人より多くの報酬を出している事実も変わらない。そしてそれは、企業がその人の労働力をそれだけ高く買っているということなのだ。普通の人は、自分の能力を高く評価されれば、それだけでもっとがんばろう、と思うものだ。もっとも、読売新聞は違うようだが・・・

ハーレム状態は男をチャラくする

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 アメリカの大学の研究によると、男より女の方が多い時、要するにハーレム状態の時の方が、男は誰とでも見境なくセックスするようになるらしい。逆に、男の数とくらべて女が少ないと、男は見境のないセックスを控えるようになるらしい。女が貴重になるので、自分のパートナーを失わないようにするためだろうか。

 ハーレム漫画やギャルゲ―などで、主人公がまるで淫獣のごとく手当たり次第に美少女をあさるのは、さすがにないだろうと思っていたけれど、その正しさが科学的に証明されたようだ。しかし、ハーレム漫画やギャルゲ―では、美少女たちまでガードがゆるくなっている気がする。その点についてはどうなのか。

 この研究によりと、女のガードの堅さは、男の数と関係なく、いつでも堅いらしい。ハーレム漫画の美少女がエロいのは男の妄想だったようだ。

 

それでも移民を受け入れるべき理由

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移民の少ない日本はすばらしい!

  ネットの住人の多くは、移民が大嫌いなように見える。近頃フランスで、アルジェリア系移民が風刺新聞社シャルリー・エブドを襲撃した事件があった。それに対するネットの住人の反応はこんな調子だ。それ見たことか。やっぱり移民を受け入れるとろくでもないことがおこる。移民が少なくて、治安のいい日本はすばらしい。日本人はなんて民度(笑)が高いんだ。日本こそ地上の楽園だ。生きててよかった・・・

 

金持ち争わず

  しかし待ってほしい。本当に移民が多いと治安が悪くなるのだろうか。たしかに、日本でもフランスでも刑務所にいる外国生まれの人の比率は高い。しかし、ただ単に麻薬を密輸入しようとした外国人も含まれるだろうし、必ずしも移民が悪いとはいえない。

 また、移民が貧乏だから犯罪を犯しているという可能性もある。移民は、低所得の仕事についていることが多いだろう。貧しさは人を過激な行動に走らせるものだと思う。私だって、月収10万だからこんなとげとげしたブログを書いているが、もし月収が100万だったならば、世界平和を願うブログを書いているに違いない。仮に、移民が低所得の仕事についているから犯罪を犯しているとすれば、移民がいなくなっても、かわりにその仕事をすることになる純日本人が犯罪を犯すだけだろう。

 これは逆に考えれば、移民が私たちの嫌がるような低所得の仕事についてくれるということだ。これは移民のメリットと言えるだろう。しかし、移民のメリットはそれだけではない。

 

移民は、母国の「意識高い系」

 私たちはついつい、貧乏な国の住民は、全員が全員、日本のようなリッチな国に行きたがるだろうと、錯覚してしまう。日本でそこそこ恵まれた生活をしている私たちから見て、貧乏な国の住民が、悲惨な生活を送っているように見えるからだ。

 しかし、その国の住民は生まれた時から貧乏なのだ。もう貧乏に慣れている。そのまま生きていても、家族や友人に囲まれた平穏な一生を送れる。それでもあえて言語の壁など、数々の困難を乗り越え、家族や友人と離れ、海外に移民したいという人たちは、間違いなくベンチャー精神とハングリー精神にあふれた意識高い系だ。今の日本に一番必要と言われている人材ではないか。

 ネットの住民はよく、移民は生活保護を食いつぶすと言う。しかし、母国で一番ハングリー精神にあふれた存在だった移民が、夢も希望もなく漫然と生活保護で生きていくくことを選ぶだろうか。

 

移民は日本文化の敵か

 移民に反対するネット民は、こう言う。移民は日本で生まれ育っていないので、日本の文化と衝突してトラブルをおこす、と。しかし、この意見に対しては、3つ言いたいことがある。

 

クソな日本文化たち

 1つ目に、その日本文化とやらと衝突してほしい場合がある。日本独自の文化というのは、必ずしもいいものではない。たとえば、付き合い残業、サービス残業、付き合い飲み会、死人が出る軍隊的な部活動、などなど。これらは、どこにも書いていないのに、暗黙の了解とされているところが「文化」の名にふさわしい。異なる文化をもった移民が入ってくれば状況は大きく変わるだろう。たとえば、付き合い残業しない外国出身の社員がいれば、純日本人の社員も帰りやすくなるに違いない。

 

わけわかんない外人はかえって許せる

 2つ目に、衝突というのは、違う文化同士より、同じ文化同士で多くおこるものではないか。たとえば、年賀状が来なければ怒る人も、相手が外国出身であれば許すかもしれない。敬語じゃなくても外国出身なら仕方がない。相手が同じ文化で生きているからこそ、相手の1つ1つの行動にいろいろな意図を感じてしまう。年賀状を出さないのは、オレのことが嫌いだからか。敬語じゃないのは、オレをなめているからか。しかし、相手が異文化で生きる人ならば、そんな意図はないものとして、割り切れるものではないか。

 

日本マニアの外人を見よ

 3つ目に、日本の伝統文化については、むしろ救済者になる可能性もある。私は京都生まれだが、京都人は京都の寺社仏閣にあまり行っていないとからかわれた。作家塩野七生さんも、イタリア人はローマ時代の遺跡の保護に無頓着なのに、イギリス人はローマ遺跡の保護に情熱的だと言っている。人間、生まれたときからそばにあった物の文化的価値には、気付かないことが多いのではないか。日本で軽視されていた日本美術が、アメリカ人のフェノロサに救われたというのは、学校の教科書にも出てくる話だ。

 

移民は高齢社会への処方箋

 これからの日本、老人は増えていく一方で、それを支える労働人口は減っていく。それを何とかするために、産業ロボットを開発するとか、育児環境を充実させて出生率を上げるとか、いろいろな策が出されている。しかし、移民ほど確実な高齢社会の処方箋は、ないのではないか。

 

日本はたいしていい国じゃない

 これらの理由から、どう考えても日本は移民を積極的に受け入れるべきなのだ。反対する理由がない。移民に執拗に反対するネットの住人たちの頭の中をのぞいてみたいものだ。しかし何を考えているのか、だいたい見当はつく。彼らの頭の中のファンタジーでは、日本は世界中がうらやむパラダイスなのだ。おたく文化(笑)は世界中で愛され、世界中から治安と民度(爆)を褒めそやされる。自分たちはそんなパラダイスに住んでいる。ああ、なんて幸せなんだ。そんな上の立場にいる日本(=自分たち)が、下の立場にいる外国人たちを門前払いにする。この妄想は、とても心地いいのだろう。

  しかし、ネット民たちはショックで自殺してしまうかもしれないが、あえて真実を言おう。日本は客観的に見て、けっして世界にうらやましがられる立場にない。西欧の先進国の比較して、ほとんど有給がとれない労働環境サービス残業という謎の風習。一方的な転勤、セクハラ、パワハラ。未来に希望が見えない高齢社会。将来、国家破綻必須の冗談みたいな額の国債。かろうじて先進国と言えるかもしれないが、もはや一流の国ではない。

 

日本は婚活的に見れば地雷女

  婚活女で例えよう。フランスとイギリスは、リベラルな性格で懐が広い、未来ある20代後半のOL美女になるだろう。ドイツは30代中ごろだが、節約家で収入も多い女医になる。北欧諸国は、結婚後は財布を握るが、堅実に将来の、子育て、教育、老後についてしっかり考えてくれる良妻候補の美人教師だ。アメリカは、浪費もするが、バリバリ稼いでくれるカリスマ女経営者といったところか。

 日本はどうだろうか。高齢社会なので、年齢は30代前半くらいだろう。浪費家でまともに将来のことを考えておらず、1人では払いきれない借金に追われている。収入も、飛びぬけていいわけではなく、結婚後は夫を馬車馬のごとく酷使する。しかもたちの悪いことに、このバカ女はバブル期の思い出を引きずっていて、ボランティア精神で近づいてきた男たちをことごとく追い返している。まったく見苦しい。ネットの住民が大嫌いなタイプの女ではないか。しかし、これが日本の現にある姿だ。

 

くだらないプライドを捨てて、攻めの姿勢に出ろ!

 今の日本は一応先進国だ。世界の上位として、移民先に選んでもらえる立場にある。しかし現状が、財政破綻寸前の高齢社会であることを考えれば、転落する時はもうすぐそこまで来ている。すぐに誰も見向きもしない国になってしまう。

 日本は時が味方してくれるような勝ち組ではない。攻めの姿勢に出なければならない負け組みなのだ。そして、まだ間に合う。ここはくだらないプライドを捨て去って現状をありのままに受け入れるべきなのだ。そして、リスクを恐れて守りの姿勢に出るのではなく、攻めの姿勢に出るべきだ。移民を積極的に受け入れることはその第一歩といえるだろう。

 

 

 

 

 

野心的な新年の目標

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野心的なフリーターたるには目標が必要

 

 野心的なフリーターになるつもりはなかった。野心的なフリーターというのは、このブログのタイトルのことだ。最初はただの「フリーターのぼやき」だったのだが、Google検索すると「フリーターのぼやき」というタイトルのブログが無数に出てきた。他のフリーターのぼやきを聞きたい方に、私なんかのぼやきを聞かせてしまっては申し訳ない。というわけで「『野心的な』フリーターのぼやき」となった。

 とはいえ、野心的なフリーターになったからには、目標くらいたてねばなるまい。そこで、新年の目標をたてることにした。まだ1月だし、ぎりぎりセーフだろう。

 

 目標1 医学部に行くこと

 私は高校を卒業してからかれこれ五年間もぶらぶらとフリーターをしている。この五年間、何の成長があったか。学んだことはただ一つ。フリーターをしていても、特定の技術が磨かれるわけではなく、自分の得意分野もできないということだ。これでは一生底辺のままだ。

 そこで私は、人生を一発逆転させるため、国公立の医学部に行って医者になりたい。理由は3つある。

 

 ①(高校一年で生物をあきらめたけど、)生命科学に興味がある

 

 ②(23年間、ひたすら周囲に迷惑をかけてきたので、)人に貢献したい

 

 ③手に職!

 

 しかし医学部に行くためには学力が必要だ。ここまでの文章を読んでお気づきかもしれないが、私の学力はのびた君レベルだ。(お気づきでないなら、私はアインシュタインレベルの天才だと言っておく) 高校時代に、数学のテストで二桁とれたことがない。理科に至っては、最初の授業で諦めた。

 先が思いやられるが、野心的な目標というのはそういうものだ。来年には国公立の医学部に行ける学力を身につけることを、今年の目標にしたい。

 

 目標2 小説家になること

 何も小説で稼ごうと言うのではない。どんなものであれ、一冊でも小説を書けば、その人は小説家となるのだ。小説家になることは、私の昔からの夢だった。今年こそ、それを実現したい。それは、二つの理由による。

 

 ①カネがかからない

 小説を書くことほど安い趣味は世の中にないだろう。小説スキルは貧民必須のスキルといえる。しばらく底辺から抜け出る予定はないので、これくらいマスターしておかなければなるまい。

 

 ②インターネットで誰か読んでくれるかもしれない

 インターネットには、小説投稿サイトがたくさんある。かわいそうな被害者たちに私の小説を読ませることができるだろう。私の小説をどれだけボロクソ言ってくれるか、想像するだけでわくわくする。(ドM)

 

 目標3 海外に行かずに海外の友だちをつくること 

 私はまだ一度も日本を出たことがないが、広い世界に興味がある。しかし、月収10万、社会の底辺のフリーターが海外に行くなんて夢のまた夢である。だが、海外に行くことは、どれほどのことなのだろうか。

 日本の金持ちどもはよく海外へ行く。アヒルの子のようにガイドについてまわり、店員&詐欺師以外の現地人とは一言も話さないまま漫然と観光地を見て過ごし、すごすごと帰ってくる。それで世界を見た、知った顔をしているのだから、笑わせるのもいい加減にしてほしいものだ。 

 私はそんな金持ちどもとは一線を画し、海外に行かずして、海外に触れたい。海外に触れるとは、異文化を知ることだろう。それなら海外の友だちを作ることが、海外に触れる一番の近道だ。金持ちといえども、海外の友だちなんてそうそういない。フリーターが金持ちに勝つ。爽快だ。

 その手段はただ1つ。インターネットだ。友だちがほしいのなら、まず自分から発信して、人に何かを提供しなければならないと思う。誰だってよくわからない人とは友だちになりたくないものだからだ。提供するものは、文章でもいいし、絵でもいいだろう。細かいことは後々考えるとしよう。