野心的なフリーターのぼやき

23歳の高卒フリーター。日常、社会についての駄文を垂れ流します。ご訪問、ありがとうございます。

麻薬を与え続けたネズミは餓死するのか?

 

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中毒ゲーマーなのだ!

 私は、ゲーム中毒である。一度ゲームをはじめれば、食事の時間を惜しみ、寝る間も惜しみ、ディスプレイにかじりつく。脳汁があふれ出て、何時間でもぶっ通しである。理性は鈍っていき、だんだんゲーム以外のことはどうでもよくなってくる。そして気付けば朝になっている。

 いくらフリーターといえど、バイトに行かなければならないので、毎日ゲームをするわけではないのがせめてもの救いだろうか。しかし、もしバイトがなかったら自分はどうなるのだろうかとふと思う。一度、麻薬中毒の人の写真を見たことがある。頬がげっそりこけていて、目だけが異様にギラギラと光っている。食事の時間も惜しいのか。それとも、麻薬の快楽にくらべれば食事も味気ないのか。ゲームをし続ければ、私もそうなる自信がある。ゲームというのは、私にとって麻薬に近いのだろう。

ひきこもりネズミとリア充ネズミ

 ネズミに麻薬を与え続ける実験の話を聞いたことがあるだろうか。ネズミに麻薬を与え続けると、ネズミは通常の食事を食べなくなり、餓死するという話だ。最近、その実験について詳しく説明したマンガを読んだ。

 そのマンガによると、ネズミに麻薬を与える実験は、2通りの環境下でおこなったようだ。1通り目では、ネズミは一匹だけで檻に閉じ込められている。いわば引きこもりネズミである。2通り目では、ネズミは複数で広い公園に解放されており、遊具もあれば、お互いにセックスまでできる。リア充ネズミとでも名付けようか。

 これら2通りのネズミに麻薬を与えたところ、檻に入った引きこもりネズミは麻薬中毒になって食事に優先して麻薬ばかりとるようになった。しかし、公園のリア充ネズミは麻薬をとりすぎないように自制するようになったらしい。

 人間においても、その人が麻薬中毒になるか否かは、麻薬の手に入れやすさだけでなく、その人にとって、世界が「檻」であるか「公園」であるかによるのではないか。マンガはそんな問いかけで終わっていた。

 暇さえあれば麻薬的なゲームをしてしまう私。そんな私にとって、世界は「檻」なのだろうか。いろいろ考えさせられる。

 

 

高校普通科の英数国社は廃止すべき

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学校でやったことは社会ではなんの役にも立たない

 

 学校でやったことなんか社会で何の役にも立たなかった。あるいは、役に立っているのかどうかわからない。みんな、そう言う。貴重な青春の膨大な時間を、ゴミのような知識をたくわえるのに使うのは、人生の損失のみならず、社会の損失だ。そんなことをしている暇があったら、課外活動に打ち込むなり、ラノベ的な男女の出会いの場でがんばる方が、人生的な意味でも、出生率的な意味でも、よっぽど有意義なのだ。とはいえ、いまだに高校各科目の無意味さに気付いていない方のために、それぞれの罪を列挙したい。

 

日本をダメにする高校科目たち

 

国語

 まさに無意味の帝王ともいえる科目。たとえば、古文なんてやったところで、社会では糞の役にも立たない。世界で通用するためには自国の古典に触れた教養人(笑)でなければならないとか、日本の文化を残すためには若い世代に伝えなければ・・・などと言われる。そんなものは役人、知識人の自己満足でしかない。1人でやってろ。人を巻き込むなと言いたい。学者など、好きな人だけでやっていればいいと思う。

 一番腹がたつのは、小説読解だ。小説は、おもしろいから読むもので、エンターテイメントである。テレビやゲームやマンガなど、他のエンターテイメントの授業はないのに、なぜ小説だけ優遇されるのか。価値観の押しつけでしかない。なぜ貴重な青春を浪費して、つまらない小説を何回も読まなければならないのだろうか。

 

英語

 国際化、国際化。そんな空虚な呪いの言葉に騙されて、まるで英語が意味のある科目であるかのように扱われているのは、まったく我慢ならない。呪われた国際化の伝道師たちは、英語が話せないと世界で通用しないなどと妄言を吐く。そもそも英語を使う仕事が社会にどれだけあるのだろうか。理系の研究者、貿易業、観光業をのぞけば、皆無である。あってもごくごく少数である。ほとんどの人は、貴重な税金を使って、人生でまったく役に立たないことをやらされているのだ。もっと怒るべきだ。

 しかし、こう反論する人もいるかもしれない。今は日本人で英語を使っている人が少数でも、日本企業の海外進出が加速しているので、将来的には変わるのではないか、と。これは3つの理由から、まったくのナンセンスだ。1つ目に、たとえ日本企業の海外進出が加速したとしても、現地で現地語を話せる従業員を雇った方がよい。2つ目に、仮に日本人を派遣するにしても、その人の派遣が決まってから半年ほど英語を猛勉強させれば足りる。誰だって仕事のためなら、本気になるものなのだ。3つ目に、国際ビジネスにおいて、語学なんかより営業スキルの方がよほど大切ということだ。言葉は通じなくても、営業スキルを磨き、誠意を見せれば、気持ちは伝わるのだ。

 また、こう反論する人もいるかもしれない。日本への外国人観光客を増やすためには日本人みんなが道案内できる程度の英語を話せないといけない、と。しかし、日本語が通じるから台湾に行きたい日本人がどれくらいいるのだろうか。みんな異国情緒を感じるために海外旅行に行くわけで、言葉が通じるか通じないかは、たいした問題ではない。

 

社会

 社会では、歴史、地理、憲法をやらされる。皮肉にも、それらを知っていても社会では何の役にも立たない。しかも圧倒的多数の人にとってつまらない。壮大な時間と税金の無駄遣いだ。百年後の日本人は、21世紀初頭の高校を見て、あの時代に生まれなくてよかったと胸をなでおろすに違いない。

 

理科・数学

 これらは理系の方々にとって、大切な科目だと思う。文系は、理系の方々の邪魔にならないように、教室から出るべきだろう。

 

本当に必要な科目は、労働法

 

 上に書いた無駄科目にかわって、本当に必要な高校の科目は何だろうか。それは、もちろん大多数の人にとって社会で役にたつ科目であるべきだ。多数派である文系を念頭におけば、このようになるだろう。

労働法

 高校生のほぼ全員が将来労働者になることを考えれば、自分の身を守るために必須の知識である。現在ブラック企業がはびこっている理由の一つは、従業員も使用者も労働法について知らないため、どこからが違法になるのか知らないからであろう。何が違法であるのか知らなければ、いつ労基署に相談すればいいのかもわからない。

簿記・ビジネスマナー

 簿記やビジネスマナーは言うまでもなく社会人必須のスキルである。現状ではみんな、会社に入ってから、研修という形で身につけている。しっかりとした研修制度を完備できる大企業に入った人は、それでいいだろう。しかし、その余裕がない中小企業に入った人はどうなるのだろうか。十分な簿記・ビジネスマナーを身につけないまま、現場に放り込まれることもあるだろう。これではみんな大企業に入りたくなるのも当然である。大企業と中小企業の格差は、広がるばかりだ。

 さらに、会社は自分で簿記・ビジネスマナーを一から教え込むのが面倒なので、仕事をしたことがない人を雇うことを敬遠する傾向がある。簿記・ビジネスマナー高校必修化により、仕事をしたことがない新卒者でも、転職市場に食い込むことができるのだ。

野球・競馬・ゴルフ・宴会スキル

 文系の大多数は営業マンになる。営業マンは、野球・競馬などの年配の人が好む話題を完備し、取引先や顧客との話を盛り上げなければならない。また、ゴルフや接待などで、取引先や顧客との絆を深めるのも大切な仕事になってくる。これらを軽視せず、しっかりと高校で教えこむことで、即戦力となるような優秀な営業マンが多く輩出され、日本の失業率も改善することだろう。

 

体育

営業とは、足で稼ぐ仕事である。体力は、いくらあってもありすぎることはない。

 

要するに、楽しくないし役にも立たない勉強は無意味ということ

 

 要するに、楽しくもないし、役にも立たない勉強に存在価値はないということである。人間、それが役にたつのであれば、熱心にがんばる。勉強が楽しくてもがんばる。しかし、それらのいずれにも該当しないことを、延々と教壇の上で話されても、やる気がしないのは当然である。する方がおかしい。

 自分は、英数国社が憎いのではない。ただ、好きな人だけやればいい。他の人を巻き込まないでほしい。そう切実に思うのだ。図書館に、好きな人だけ読めるように、英数国社の教科書が何冊かおいてある程度でちょうどいいと思う。

 それでも高校の勉強は価値があると言う人もいる。そういう人は2タイプに分かれる。

 

高校で学ぶ内容それ自体には意味がない。がんばることに意味がある?

 

  こういうことを言う人がいる。高校で学ぶ内容それ自体には意味がない。しかし、社会に出れば、嫌なことでもたくさんしなければならない。それらを乗り越えるためには、高校にうちに嫌なことを乗り越える訓練をしなければならない。それが高校の勉強なのだ、と。

 しかし、がんばるというのは、結局シチュエーションの問題でしかない。誰だって、自分が欲しいものを手に入れるためならがんばる。よくわからないもののために、頑張ることはない。それだけなのだ。がんばる能力なんてものは、存在しないのだ。上から言われたことなら何でも、何の背景もなくただがんばるなんて、ありえない。そんな能力をもっていると言う人がいれば、そいつを注意深く見るべきだ。よくできたロボットかもしれない。

 たとえば、学校では勉強しない生徒も、塾に行けば目の色を変えて頑張るというのも、よくあることだろう。それは何も、その生徒ががんばる能力というものを身に付けたからではない。塾が順位づけなどにより、生徒の競争心や虚栄心をあおることに長けており、生徒がそれらのためにがんばるようになったという、ただそれだけのことなのだ。

 

最初はつまらなくても、学ぶうちに楽しくなる?

  こういうことを言う人もいる。たとえば、最初は無理やり英語をさせられていても、そのうち英語が楽しくなり、それが趣味になることがあるかもしれない。最初は無理やり古文をさせられていても、そのうち古文が楽しくなり、それが趣味になることがあるかもしれない、と。

 こんなことを言う人に対しては、まず何と悠長なことを言っているのかと驚く。このご時世、のんびりと趣味をみつけることより、まず仕事を見つけて、自分の食いぶちを確保することの方が一億倍大切である。高校でニートでも養成するつもりなのだろうか。そもそも、この現代社会で、趣味になるものなんて、金さえあればいくらでも転がっている。テレビ、ゲーム、マンガ、飲み会、などなどありすぎて困るくらいだ。今は江戸時代ではないのだ。学校で趣味をみつける必要なんて、これっぽっちもない。大きなお世話である。

 だいたい、人から一方的に発信されることは、基本的に趣味になりにくい。同じ英語をするにしても、教室にすわってつまらない話を聞いているより、海外のオンラインゲームをしていて英語を勉強する方が、知識の吸収度も違えば、興味も段違いだろう。

 

過去のしがらみを断ち切れ

 結局、高校で英数国社が偏重されるのは、過去の一部の教養人のイメージにとらわれているのではないだろうか。明治・大正・昭和初期の教養人は、語学に堪能で、古典の素養があり、歴史に詳しかったかもしれない。そんな一部の教養人を育てるための高校教育なら、今のままでいいかもしれない。

 しかし時代は変わった。今やほとんどの日本人が高校へ行くようになった。高校は大衆化したのだ。高校は大昔の遺物であるべきではない。これから社会に出ようとするすべての若者たちが、それに向けて武装する場所であるべきだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロフィール

はじめまして!

ご訪問、ありがとうございます。

京都市出身の23歳。高校卒業後ぶらぶらとフリーターをしている。現在、月給10万円くらい。年齢=彼女いない歴。趣味は、ゲーム、アニメ、サイクリングと読書。実家暮らしだが、追い出されそう。なんとか人生を一発逆転できないか模索中。敬語廃止論者高校廃止論者左翼