野心的なフリーターのぼやき

23歳の高卒フリーター。日常、社会についての駄文を垂れ流します。ご訪問、ありがとうございます。

掃除と映画「ハウルの動く城」と脳科学の関係

 

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ハウルの動く城のあの謎シーンを分析する 

 

 ジブリ映画「ハウルの動く城」は、クソ映画という人もいれば、神映画という人もいる賛否両論ある映画だ。この映画のあらすじを簡単に言おう。老婆の姿にかえられた、主人公の美少女ソフィーが、ハウルというイケメン魔法使いの家に住み込むこみ、ハウルと愛し合うようになる。まさしくリア充そのもののラブストーリーだ。ああ、心が痛い。

 

 この映画の中に、意味不明ということで、有名なシーンがある。

 

 ソフィーは、クソ汚いハウルの動く城を掃除する。すると、ハウルの髪を染めるカラー剤がめちゃくちゃになり、ハウルの髪が金髪→黒髪にかわってしまう。ハウルはたったこれだけのことで、マジギレして、勝手に絶望して、暗黒化する。

 

 ハウルにまったく感情移入できない、意味不明のシーンだろう。しかし、このシーンには、私なりの解釈がある。

 

 家の内部は、人間の精神の象徴なのだ。この場合だと、ハウルの城の内部は、ハウルの精神の象徴となる。ソフィーはハウルの城の内部(=ハウルの心の中)にずかずかと入り込み、掃除をする。すると、ハウルの心の中は整理されるが、その分、心の中の人に見られたくないものを見られてしまう。だからハウルはマジギレした。私はこのシーンをこのように解釈する。

 

家の内部と人の精神

 

 なんてアホらしい勝手な解釈なんだ、と思われるかもしれない。しかし、家の内部と人間の精神は、歴史を振り返っても、結びついているように見える。「個人空間の誕生(イーフー・トゥアン著・阿部一訳)」を引用する。

 

 「およそ三百年前にはじまった内面化は、家族の親密さや、室内風景や、詰め物の入った椅子の快適さへの引きこもりによって特徴づけられるが、それとともに自己への引きこもりや自意識の強まりによっても特徴づけられる。壁掛けの鏡は十七世紀の終わり頃普及し始めた。十八世紀の初期には、勉強と内政のための静かな場所である図書室が、ますます多くのジェントリーや貴族の家の特徴となっていた。・・(中略)・・この時期に、読み書きできる人々は文章に「私」を頻繁に使うようになった。また、「自己愛」「自己意識」「自己憐憫」「自我」「性格」「良心」「憂鬱」「当惑」といった言葉が、イギリスやフランスの文学に出現し、現代と同じ意味で使われるようになったのである。」

 

 とまあ、読みにくい引用文だ。しかし、家の内部の発展が、人間の精神の発展と結びついていることは、おわかりいただけると思う。

 

 しかし、そんな難しい事を考えないでも、掃除するとなんかすっきりするとか、掃除すると心洗われた気がする、というのは、身近な体験にないだろうか。ある記事読み、そこには、脳科学的な理由がある気がした。

 

 意外とテキト―な脳みそ

 

 この記事によると、たとえば、ゴキブリを食ってキモい、というときも、ムカつくヤツがキモい、というときも、脳の同じ部分が反応するらしい。前者は、知覚的なもの、後者は感情的なもの。同じ「吐き気」でも違うじゃないか、と言うかもしれない。しかし、脳は同じ部分で処理する。

 なぜなら、脳は、感情的な吐き気というものを処理しないといけなくなったとき、それを処理するための新しい部分を作るのではなく、元からあった部分の仕事を増やしたからだ。

 

 この記事は、さらにおもしろい実験を挙げる。

 

 ①精神的な苦しみを感じている人に、肉体的な痛みに関係する神経伝達物質の働きを抑える薬を投薬すると、気分が楽になる。

 

 ②倫理的な過ちを話した直後の人は、そうでない人より消毒液が欲しくなる。

 

 ③被験者に、いままでの道徳的な過ちについて話してもらう。そのあと、手を洗った被験者は、洗わなかった被験者より、その直後に人助けをしない傾向が出た。(手を洗っただけで、罪までが洗われた気になったのか)

 

 ④温かいコーヒーを渡してくれた人は、冷たいコーヒーを渡してくれた人より「温かい人」に見える。

 

 ⑤履歴書が軽いクリップボードについていると、その人の性格まで軽いやつに見える。

 

 身体と精神、物理的な世界と精神的な世界は、案外根深いところで結びついているのかもしれない。掃除して部屋が綺麗になると、自分の心の中まで綺麗になったように感じてもおかしくないように思える。ソフィーのような美人に掃除してもらえるハウルはうらやましいけど、自分で掃除するのも悪くない気がしてきた。