人生は短いほうがいい!
時間がたつのはあっという間で、人生は短い。誰もが一度はそう感じたことがあるのではないか。そして、そこに虚しさとか、はかなさを感じ、悲観するのだ。
しかし、考えてもみれば不思議なものだ。人生とは実体のないものだ。紐とか蛇のように、長さがあるわけではない。それなのになぜ短いと感じるのだろうか。
いや、人生に長さはある。たとえば、1分より2分の方が長いじゃないか、というかもしれない。1分、2分がグラフ上の目盛りなら、たしかにそうだろう。2分の目盛りまでの方が長い。しかし、私たちの1分、2分が、グラフ上の目盛り以上のものであることは、誰もが気付いていることだ。
では、そんな実体のないものである、時間、人生が、なぜ短いと感じるのだろうか。それには、3つの理由があるように思える。
①やったことを文章にすると、短くなるから
私は少し前までニートだったが、ニートの一年というのは文章にすると、ほんの一行で書けてしまう。「1月から12月まで、毎日2ちゃんねるを見て、オナニーをして、ゲームをした」こんな感じだ。
しかし、リア充君の一年は、こうはいかない。「1月は、A社とのプロジェクトを完成させ、彼女と結婚式の相談をして、有給をとってハワイに旅行し、(・・・)。2月は(・・・)」と、書けばきりがないだろう。ノート一冊分くらいはあるんじゃないだろうか。
というわけで、ニートの私と、リア充君とでは、一年を文章にしたときの長さが違う。もちろんこれは文章の長さであって、時間の長さではない。しかし、時間というのは実体のないもので、長さもない。だから、文章の長さ=時間の長さ、と錯覚してしまう。
したがって、人生を長くしたければ簡単だ。些細なこと、くだらない事でも日記につけ、自分の生きてきた記録を長い長い文章にすればいい。それだけで人生が長いと感じるだろう。
②昔のことが思い出せてしまうから
昔の思い出が、鮮明に出てくるとき、人生が短いと感じる。たとえば、10年前の出来事が、昨日のことのように、鮮明に、はっきりと思いだされると、ああ人生は短いと感じる。なぜだろうか。
それは、人生の長さを、距離の長さと錯覚しているからだと思う。長い距離にあるもの、つまり遠くのものは、よく見えない。ぼんやりしている。しかし、短い距離にあるもの、つまり近くのものは、はっきり鮮明に見える。
これを出来事にあてはめる。過去の出来事が、ぼんやりとしか思い出せないと、距離のときと同じように、その出来事との間に「長い」時間があるように感じる。逆に、出来事が、鮮明に、はっきりと思い出されると、過去との間の時間が「短い」と感じる。
つまり、距離と時間を混同してしまうため、昔の出来事が鮮明であれば鮮明であるほど、人生は短いと感じてしまう。ちょうど、鮮明に見えるものが、自分から短い距離にあるように。
では、どういうときに、過去の出来事が鮮明に思い出されるのだろうか。それは、①ずっと同じ場所に住んでいるとき、あるいは、②ずっと同じような環境で、ずっと同じようなことをしているときであると思う。
なぜなら、過去の出来事の現場にいれば、記憶を補完して、思い出を鮮明にすることができるからだ。
たとえば引越しをする前のことが、遠い昔のことのように思えたり、働き出してから学生時代が遠い昔のことのように思えることは、ないだろうか。
③やりたいことが多すぎて、時間が足りないから
たとえば、世界征服したいが、そのためには1000年かかるとしよう。しかし、80年くらいで寿命がきてしまう。1000年と80年の目盛りをグラフに打てば、80年は圧倒的に短い。だから、人生は短い。
学ぶこと、探究することが尽きない、学者タイプには、こういう人が多いのではないだろうか。しかし、やりたいこともとくになく、当たり障りなく生きることを目標にしている人にとっては、人生は十分長いだろう。
人生は短い方がいい!
というわけで、人生が短い理由は、①自分のしてきたことを短い文章で簡潔にまとめてしまっているから、②ずっと同じ場所で同じようなことをしているから、③やりたいことが多すぎるから、ということになる。
それならば、人生を長くする方法は簡単だ。
①毎日ノート3ページ分のくだらない日記を書き、自分の人生を長い長い文章にする。
②一カ月おきに引越しして、転職して、周囲の環境をかえる。そうなると、記憶が補完できなくなり、過去の出来事が、鮮明に思い出せなくなる。
③やりたいこともないまま無気力に生きる。
しかし、そんなつまらない人生はまっぴらごめんではなかろうか。
人生が短くても、そう悲観しなくてもいいのかもしれない。短くて上等だ。